目次
◆ なぜ1948年は「現在のパレスチナ問題の出発点」と言われるのか?
1948年には、2つの重大な出来事が同時に起こりました。
- イスラエル建国
- パレスチナ大追放(ナクバ)
この2つは、切り離せない“表と裏”の関係にあります。
現在の対立、ガザ問題、入植地問題、難民問題など、ほぼすべての根源が1948年にあります。ここでは、その流れを順を追って見ていきます。
🌍 1. 国連分割案:1つの土地を「2つの国」にする計画
1947年、パレスチナではアラブ人とユダヤ人の衝突が激化し、統治していたイギリスは手に負えなくなって、問題を国連に委ねました。

そこで国連が出した答えが、
「パレスチナを『ユダヤ国家』と『アラブ国家』の2つに分ける」
という国連分割案(国連決議181号)です。
● 国連分割案の内容
- ユダヤ国家:パレスチナ全体の約56%
- アラブ国家:パレスチナ全体の約43%
- エルサレム:どちらにも属さない国際管理地区
しかし、当時の人口比は、
- アラブ人:約67%
- ユダヤ人:約33%
でした。
アラブ人から見ると、
「人口が少ない移民(ユダヤ人)に、土地の半分以上を渡すのは不公平だ」
という感情が強く、アラブ側は分割案に反対しました。
一方、ユダヤ側は、
「ついに国が持てる!」
として、分割案を受け入れました。
🇮🇱 2. 1948年5月14日:イスラエル建国宣言
緊張と暴力が続くなか、1948年5月14日、ユダヤ人指導者ベン=グリオンは、
パレスチナの一部に「イスラエル国家」を建国する
と一方的に宣言しました。
アメリカとソ連は素早くこれを承認し、イスラエルは国際的に「国家」として認められる流れが固まります。
しかし、この建国宣言は、周辺アラブ諸国にとって到底受け入れられない出来事でした。
🔥 3. 第一次中東戦争(1948〜1949)の始まり
イスラエル建国の翌日、周辺のアラブ諸国(エジプト・シリア・ヨルダン・レバノン・イラクなど)が、
「パレスチナ人の土地を守るため」
としてイスラエルに軍事介入し、第一次中東戦争が始まりました。
● なぜアラブ諸国は戦争に踏み切ったのか?
- パレスチナ分割案が不公平だと考えた
- ユダヤ人国家の成立を認めたくなかった
- パレスチナ人の土地が奪われると感じた
- 自国内世論(反イスラエル感情・反ユダヤ感情)が強まっていた
● アラブ軍側の問題点
- 国ごとの目的が違い、連携が取れていなかった
- 兵器・訓練・組織面でややバラバラ
- ヨルダンは「パレスチナ国家の独立」より自国の領土拡大を優先していた
● イスラエル側の強み
- 建国前からハガナーという組織的な軍事組織を持っていた
- 第二次世界大戦後、ホロコーストから生き延びた多くのユダヤ人が戦闘に参加
- 欧米のユダヤ系支援者から資金・武器・技術支援を受けた
その結果――
✅ 戦争の結果:イスラエルの勝利
国連分割案で割り当てられていた以上に、イスラエルは領土を広げることに成功しました。
🗺 4. 戦後の地図:パレスチナの78%をイスラエルが支配
戦争前の国連分割案では、
- ユダヤ国家:56%
- アラブ国家:43%
のはずでしたが、戦争後の停戦ライン(1949年)では、
- イスラエル:パレスチナの約78%を支配
- ヨルダン:ヨルダン川西岸地区+東エルサレムを併合
- エジプト:ガザ地区を管理
そして何より重要なのは、
❌ パレスチナ国家はどこにも誕生しなかった
という点です。
この時点で、パレスチナ人は「国なき民」となり、多くが難民化しました。
🏚 5. パレスチナ大追放(ナクバ)とは何か?
1948年前後、イスラエル建国と戦争の過程で起きた、
- 住民の追放
- 恐怖による避難
- 村の破壊
- 民兵による虐殺事件
- 戦後の帰還禁止
などの結果、
👉 約70万〜75万人のパレスチナ人が故郷を追われ、難民となった
とされています。
これは当時のパレスチナ人全体のおよそ半分以上に相当します。
アラビア語で「ナクバ(Nakba)」とは、
「大災厄」「大きな悲劇」
という意味で、パレスチナ人にとって1948年は一生忘れられない年となりました。
🔥 6. ナクバはどのようにして起きたのか?(より詳しく)
ナクバの原因は1つではなく、いくつかの要因が重なって起こった“複合的な現象”だと考えられています。
6-1 イスラエル軍およびユダヤ民兵の軍事行動
- 村を取り囲んで砲撃・攻撃
- 重要な道路・都市を制圧する作戦
- 軍事的な理由から住民を退去させる行動
こうした軍事行動の結果、住民は故郷を離れざるを得ない状況に追い込まれました。
6-2 恐怖による大量の避難
ナクバを語るときに特に有名なのが、
🔴 デイル・ヤシーン村事件(1948年4月)
ユダヤ民兵組織(イルグンやレヒ)が、エルサレム近くのデイル・ヤシーン村を襲撃し、多数の民間人が殺害された事件です。
この事件はパレスチナ全体に強い恐怖を与え、
- 「次は自分たちの村が襲われるかもしれない」
- 「今すぐ逃げないと危険だ」
という心理が広まり、多くの人が住んでいた村を捨てて避難しました。
6-3 村の破壊と再利用
イスラエル軍が占領したパレスチナ人の村の中には、
- 住民がいなくなった後、村が破壊された場所
- その上に新しいイスラエルの町や農場、森林が建設されていった場所
が多数ありました。
研究によると、
✔ 約400〜500のパレスチナ人の村落が地図から消えた
とされています。
6-4 アラブ側の「一時避難」を促す呼びかけ(限定的な要因)
一部の都市部では、アラブ側の指導者や軍が、
- 「戦闘が終わるまで一時的に避難してほしい」
と住民に呼びかけたケースもありました。
しかし、これはナクバ全体から見ると一部の例であり、
ナクバの主な原因が「アラブ側の指示だけ」という説明は、現在では不正確だと考えられています。
⛔ 7. なぜパレスチナ人は二度と故郷に戻れなかったのか?
戦争が終わると、多くのパレスチナ人は
「戦闘が落ち着いたら家に戻れるだろう」
と考えていました。
しかし、イスラエル政府は難民の帰還を認めませんでした。
● 帰還を拒否した主な理由
- パレスチナ人が戻れば、ユダヤ人国家の人口比が崩れるから
- 没収した土地や家屋を返還しなければならなくなるから
- 安全保障上、「敵側住民」とみなしていたから
- 新しい国家づくりの妨げになると考えたから
こうして、
👉 パレスチナ人は故郷に戻れないまま、ヨルダン・レバノン・シリア・ガザ・西岸などで難民生活を続けることになりました。
その子孫を含めると、現在では600万人以上とも言われ、世界最大級の難民問題となっています。
📌 8. 「帰還権」とは何か?
ナクバで故郷を追われたパレスチナ人とその子孫は、
「私たちには元の家や土地に帰る権利がある」
と考えています。
これを「帰還権(Right of Return)」と呼びます。
一方、イスラエル側は、
- 全員を受け入れると、ユダヤ人国家として成り立たなくなる
- 歴史的事情から、全面的な帰還は受け入れられない
として、帰還権を認めていません。
この「帰還権」をめぐる対立こそが、
👉 現在まで続くパレスチナ問題の最大の核心
といっても過言ではありません。
📘 第4話まとめ(完全版)
- 1947年、国連はパレスチナを「ユダヤ国家」と「アラブ国家」に分ける分割案を出した
- ユダヤ側は賛成、アラブ側は不公平だとして反対した
- 1948年5月、ユダヤ側がイスラエル建国を宣言
- 翌日、周辺アラブ諸国が軍事介入し第一次中東戦争が勃発
- 戦争はイスラエル優勢で終わり、イスラエルはパレスチナの約78%を支配することになった
- 一方で、約70万〜75万人のパレスチナ人が家や土地を追われ、難民化した(これがナクバ)
- パレスチナ人の村は400〜500以上が消滅し、多くは新しいイスラエルの町や農場になった
- 戦後、パレスチナ人の帰還は認められず、パレスチナ国家も誕生しなかった
- このとき生まれた難民問題と帰還権問題が、今もなおパレスチナ問題の中心にある
🕊 次回(第5話)は…
歴史④:中東戦争の連続と“占領地問題”の始まり(1967年 六日戦争とは?)
第5話では、
- 1956年:第二次中東戦争
- 1967年:第三次中東戦争(六日戦争)← 特に重要
- 1973年:第四次中東戦争
- 「占領地問題」がどのように始まったのか
- エルサレムをめぐる対立がさらにこじれた理由
などを、“地図の変化”を中心に、中学生にもわかるように解説していきます。