目次
◆ パレスチナ問題の“現代の形”は、オスマン帝国の終わりから始まった
パレスチナ問題は、古代や宗教だけでなく、近代の国際政治の進み方そのものが大きく影響しています。
特に重要なのは、
- オスマン帝国が約400年統治した時代(1517〜1917)
- 第一次世界大戦(1914〜1918)での激変
の2つです。
この2つを理解すると、
「なぜ現代のような複雑な対立になったのか」
がはっきり見えてきます。

🕌 1. オスマン帝国の統治:多民族・多宗教の巨大国家
1-1 オスマン帝国とは?
オスマン帝国は、14〜20世紀まで続いたトルコ系のイスラム帝国で、最大時には
- 中東
- 北アフリカ
- バルカン半島(ヨーロッパ)
- 黒海周辺
に広がる、世界最大級の大帝国でした。
地図でみると、ほぼ中東全体を丸ごと統治していたほどの勢力でした。
1-2 パレスチナ地域はオスマン帝国の“普通の一州”だった
1517年、オスマン帝国がパレスチナを支配下に入れます。この時代、パレスチナは
- 農村で暮らすアラブ系住民(ムスリムが多数)
- 都市に住むアラブ人・キリスト教徒
- 少数のユダヤ教徒(セファルディムなど)
が平和に混じりあって生活していました。
この時代にはまだ、
- 「ここにユダヤ国家をつくる」
- 「ここはアラブ国家だ」
という民族主義の考え方はほとんど存在していませんでした。
1-3 オスマン帝国は“宗教自治”を重視していた
オスマン帝国は「ミッレト制度」と呼ばれる統治を行っていました。
これは、
- イスラム教徒
- キリスト教徒
- ユダヤ教徒
など、それぞれの宗教コミュニティ(ミッレト)に、
一定の自治権と、自分たちの宗教法に基づいて暮らす権利を与える仕組み
です。
つまり、オスマン帝国は「異なる宗教が共存できる枠組み」を持っていたと言えます。
1-4 パレスチナの生活は安定していた
オスマン統治下のパレスチナでは、
- 農業
- 商業
が生活の中心で、大規模な争いは比較的少なく、アラブ人とユダヤ人は共存していました。
この時代のユダヤ人は少数派の地元住民であり、
まだ大規模なユダヤ人移民もなく、パレスチナ人(アラブ人)との深刻な対立もほとんどありませんでした。
🌍 2. 19世紀、オスマン帝国の衰退と“民族主義”の広がり
2-1 オスマン帝国の弱体化
19世紀になると、
- イギリス
- フランス
- ロシア
などのヨーロッパ列強が力をつけ、軍事・経済・政治の面でオスマン帝国は次第に押され始めます。
国力が落ちていったオスマン帝国は、ヨーロッパから「ヨーロッパの病人」と揶揄されるほど衰退していました。
2-2 ユダヤ人の“シオニズム運動”が始まる
同じ19世紀後半、ヨーロッパではユダヤ人差別や迫害が続いていました。
その中から、
「祖先の地(パレスチナ)に戻ろう」
という思想が生まれ、「シオニズム(ユダヤ人帰還運動)」が始まります。
この運動の影響で、
✔ 1880年代以降、ユダヤ人移民がパレスチナに少しずつ増加
当時のパレスチナ住民の多数はアラブ人でしたが、そこにユダヤ人入植者が増え始め、
- 土地の売買
- 農地の所有権
をめぐる小さなトラブルが出始めました。
この段階ではまだ「全面的な対立」とは言えませんが、後の大きな衝突の“種”がまかれた時期です。
💣 3. 第一次世界大戦:中東が“世界の大争奪戦”の舞台に

1914年、第一次世界大戦が始まります。
主な対立構図は、
- 協商国:イギリス・フランス・ロシア など
- 同盟国:ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国
でした。
ここでポイントとなるのは、オスマン帝国がイギリスと敵対する側に立ったことです。
パレスチナを含む中東地域を支配していたオスマン帝国が敵になると、イギリスはこう考えます。
「中東のアラブ人やユダヤ人を味方にして、オスマン帝国を弱らせよう」
その結果として行われたのが、後に「三枚舌外交」と呼ばれる、パレスチナの土地を巡る“矛盾した3つの約束”でした。
🔥 4. イギリスの“三枚舌外交”の詳細
イギリスは第一次世界大戦中、同じ地域(パレスチナ)に対して、
- アラブ人
- フランス
- ユダヤ人
に矛盾する3つの約束を行いました。
これが戦後、大きな混乱と対立の原因となります。
4-1 アラブ人への約束:フセイン=マクマホン書簡(1915)
イギリスは、アラブ人指導者フセインに対してこう約束しました。
「オスマン帝国と戦ってくれたら、アラブ人の独立国家を認める。パレスチナを含む広い地域を、あなた方の国として承認する。」
アラブ側はこれを信じ、
- 「アラブ反乱」を起こしてオスマン帝国と戦う
- イギリス軍と協力して中東戦線で戦う
など、大きな協力を行いました。
4-2 フランスとの密約:サイクス=ピコ協定(1916)
しかしその裏で、イギリスはフランスとサイクス=ピコ協定という秘密協定を結んでいました。
「戦争に勝ったら、中東はイギリスとフランスで分割しよう。パレスチナは国際管理地区として、二国で共同管理しよう。」
これは、アラブ人への約束(広い独立国家)と完全に矛盾しています。
4-3 ユダヤ人への約束:バルフォア宣言(1917)
さらに1917年、イギリスはバルフォア宣言を発表し、ユダヤ人に対して
「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナル・ホーム)をつくることを支持する。」
と宣言しました。
これは、アラブ人への「アラブ国家」の約束と真っ向から衝突します。
📌 なぜイギリスは“3つも矛盾した約束”をしたのか?
理由1:戦争に勝つため“味方が欲しかった”
- アラブ人 → オスマン帝国に対抗してもらうため
- フランス → 戦後の中東分割で協力関係を保つため
- ユダヤ人 → 欧米のユダヤ系資本・世論の支持を得るため
イギリスは「まず戦争に勝つこと」が最優先であり、後で矛盾が生じることよりも、目先の同盟・協力を優先したのです。
理由2:当時は“帝国主義の奪い合い”の時代だった
20世紀初頭は、ヨーロッパ列強が
- 植民地
- 資源(特に石油)
- 軍事拠点
を奪い合う帝国主義の時代でした。
中東は、
- ヨーロッパとアジア・アフリカをつなぐ要衝
- 石油資源が次第に注目されつつあった地域
であり、列強にとって絶対に手放したくない“戦略的な場所”だったのです。
🏳️🌈 5. 大戦終結 → オスマン帝国崩壊 → パレスチナはイギリス領に
1918年、第一次世界大戦が終わり、オスマン帝国は敗北・解体されます。
その後、1920年に国際連盟(当時の“世界のルールを決める場”のような存在)は、
「パレスチナはイギリスの委任統治領(Mandate)とする」
と決定しました。
つまり、
- アラブ人への約束(広い独立アラブ国家)は守られない
- ユダヤ人への約束(民族的郷土)は部分的に進められる
- フランスとは、シリアやレバノンなどの分割で調整
という形で、三者への約束は不公平な形で処理されました。
パレスチナ委任統治領で何が始まったか?
イギリス統治下のパレスチナでは、
- ユダヤ人移民の急増
- 土地売買の増加とアラブ農民の土地喪失
- アラブ人とユダヤ人の衝突の激化
- 武装組織の登場
など、現代のパレスチナ問題へ直結する動きが一気に進んでいきます。
このプロセスと、イスラエル建国・パレスチナ難民の誕生は、第4話で詳しく解説します。
📘 第3話まとめ(詳細版)
- パレスチナは約400年間、オスマン帝国の支配下で比較的安定していた
- オスマン帝国は宗教自治(ミッレト制度)を通じて、アラブ人・ユダヤ人・キリスト教徒の共存を認めていた
- 19世紀後半、帝国が弱体化し、ユダヤ人のシオニズム運動が始まり、パレスチナへの移民が増加した
- 第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北し、中東は列強の分割対象となった
- イギリスは戦争協力を得るため、アラブ人・フランス・ユダヤ人に矛盾する3つの約束(三枚舌外交)を行った
- この結果、同じ土地(パレスチナ)を複数の勢力が「自分の正当な権利」として主張する構造が生まれた
- 戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、ユダヤ人移民の増加とアラブ人との対立が本格化する土台が形成された
🕊 次回(第4話)は…
「イスラエル建国とパレスチナ大追放(ナクバ)〜70万人以上が故郷を失った日〜」
次回は、
- 国連分割案とは何だったのか
- どのようにしてイスラエルが建国されたのか
- なぜ70万人以上のパレスチナ人が難民になったのか(ナクバ)
- 「帰還権」問題の出発点
などを、中学生にもわかる言葉で、しかし専門家として正確に解説していきます。